突然、ノックもなしに部屋に入ってきた彼女。
ノックがないのはいつものことだが、
彼女の表情はいつものあの、勝気というか、不敵という言葉がぴったりな微笑でも、不機嫌そうな怒った顔でもなかった。
そして、視界には綺麗な紅色の髪。
指どおりの良いその髪に指を絡ませて、縋る彼女を見る。


「アスミさん?」
「・・・・・・・・あいつが」
「大丈夫ですよ、だいじょうぶ」


そう、彼女の耳元で呟いて頭を撫でた。



「だいじょうぶ」
これは一種の呪文だ。
彼女の夢に出てきては、彼女の自我をおびやかす“あいつ”
それを彼女の脳内から取り除く、唯一の呪文。
何より、私には、その呪文を呟きながら、彼女の気が済むまでいっしょにいることくらいしかできないのだ。


「大丈夫、大丈夫ですよ。アスミさん」


彼女がこんなに弱っているとき、きまって頭をもたげる優越感。
まだ頼ってくれる、まだ、私に縋りついてくれる。





まだ、私に依存してくれる。





「久しぶり」


しばらくすると、“あいつ”は現れる。
彼女の隙間からじわじわと染み出して、そしてかたどられた悪魔。
この悪魔と出会ったのはいつだったか。


アスミさんの我儘は純粋で、言うなれば子どもが言う無茶に似ている。
だけど、この悪魔が発する言葉は、全て理解したうえで一番嫌なものを選んだもの。


「どうも」
「あら、つれない返事」
「できればもう、会いたくなかった」
「私は会いたくて会いたくて、おかしくなりそうだったのに」


彼女と同じ顔の、声の、悪魔。
頬に添えられた手の先は、悪魔と言うには暖かすぎる。


「どうしてそんな顔するの?
折角久々に会えたのに」
「そんな顔?」
「ええ、今にも泣きそうな、もしかして、誘ってる?」
「まさか」


そう言った直後、世界が少し回って、いつの間にか天井を見ていた。
アスミさんも私より力が強い、でも、それよりも強い力。
握られた手首がじんじんと熱を帯びていく。
もう少し、もう少しでまた元の場所に戻っていく、そう言い聞かせて、目を瞑る。


しばらくしても、なにも来ない。
不審に思って目を開けると、悪魔は私の上に馬乗りになったまま、笑っていた。


「ねえ、しないでおこうか?」
「どう、して」
「うふふ、そうしたらきっとあたし、ずっと主導権を握っていられるわよ?」
「何を言ってる」
「この体、ずっとあたしのモノだって言ってるの」
「ふざけるな」
「そんな言葉づかい、普段してないでしょう?」
「黙れ」


心が波立った。
この入れ物はアスミさんのなのに。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
頭の中が、ぐるぐる回る。世界も回る。
彼女がいないと、世界はこんなに不安定だ。


「冗談よ。本気にしちゃって、可愛いわね」
「じょうだん、?」
「そうよ、まだ、冗談で許してあげる。
そうだ、教えたでしょ、ちゃんと名前、呼びなさい?」





唇に、彼女の感覚。
糸の切れた人形のように、私の上に崩れる入れ物。
しばらくして、寝息を立てるアスミさん。


それを見て安堵する私。


きっと、あの悪魔は笑ってるんだろう。


2008,09,09